Ⅰ.永遠の旅人

 最初に道を踏み外したのは、小柄ながら聡明な眼差しを持ったあなた。
 迷い込んだ廃墟から行く先を求めて本を手に取り、するりと引き込まれた先は酷く澄んだ空気と豊かな自然。あっさりと目にした外の景色にあなたは不思議な引力で目を奪われた。

――あなたは気のあう友人たちと廃墟探索に来ていた。
 奇妙な遠吠えやオカルティックな残留品、閉塞的な空間と合わさって、とても雰囲気のある、ありすぎたこの廃墟には嫌な予感すら覚えたものだけど――こんなシチュエーションなら逸れない方がいいのに、いつの間にか一人になっていたあなたはそれでも幸運なのか、遠吠えの正体やここでオカルティックな何かがあったことを知らないままに廃墟の外に出ることができた。
 瓦礫を潜った年の割に低い背丈は病で自由に出歩けなかった頃の名残り。殊勝にもあなたは過去にあった苦しみの時代を悔やんではいないようだけど、だからこそ感じ取れただろう。――身体を感じないほどの感覚というものが、どれほど自由であるかを。
 今あなたのいるこの場の空気はどこまでも澄んでいて、重さを感じなかった。痛みも、温度も、葉擦れのもたらす僅かな感触さえも。

――あなたは思うだろう、どこまでだって行ける。
 事実、ここにあなたを邪魔する者など存在しないのだ。あなたを害する者も、引き留める者も、なにもかも。廃墟に入ってきた時とは違う出口であったこの先ではもう誰かとすれ違うことはない。
 だから目にするすべてがどこまでも無人で、そこに誰も居なくても、あなたにとってそれは時間をかけて旅する価値のある美しい景色だった。――だって、あなたは元々、美しき世界ばかりを願っていた。廃墟探索に頷くくらいには。目に映るものに他者を求めてなどいなかっただろう? だから運よく迷い込んだここは、あなたにとって正しく理想郷になり得るかもしれないね。

 透明なあなたは足跡ひとつ残さず歩いてゆく。発つ鳥が後を濁さないように。
 ただ……あなたが容易く忘れ去ってしまった、友情という名の繋がりが、やがて別の執着と殺意と喪失を強く呼び起こすことは――もう、あなたには関係ないことだったね。

Ⅱ.後悔に赤い花が咲く

 これは潰された赤い花が咲く前の話。
 彼女はその胸に、表面上は友人と呼べる相手、こと二人に対して鬱屈した複雑な感情を押し込めていた。小柄で聡明なあの子に対しては憧れと裏返しの嫉妬を。寡黙で無愛想な男に対しては嫌悪を。

 彼女は純粋な気質ではなかった。だからこそあの子に透明さを見出して、惹かれていたのだろうか。
 ……それにしても人間とは不思議なもので、はじまりには胸が温まるような好意を抱いていたのは確かなのに、何故人は美しいままの気持ちではいられないのだろうね。眩しさが目を焼くのにそう時間はかからなかった。
 愚直で盲目的な男よりは彼女は自分の感情を把握していたから、男に対する感情が同族嫌悪だと分かっていた。だからこそ余計に男を憎んだ。つりあいもしないのに執着ひとつで傍に寄り添おうとする様に胸を掻き毟りたくなる思いだった。

 廃墟探索を持ちかけたのは彼女だった。理由はふたつ。あの子が好きそうだったら、あの男が邪魔だったから。
 別になにか具体的な害意ある計画があったわけではない。ただ「そういうシチュエーション」になればいい程度のセッティング。状況に後押しされれば踏み出せるかもしれない、あの子への好意も、あの男への悪意も。自分の意思で決めるのは恐ろしい。そういう、心の弱さを彼女は飼っていた。

 ――どうして、どうして、どうして。

 憧れを嫉妬で穢して、寄せた好意を愛憎で握り潰したのは彼女自身だったね。
 帰結として――彼女もまた、花となった。赤い花。比喩表現。直接的に指し示すなら、ただの肉塊だ。花のように飛び散り、砕けた骨は種にはならないからただ転がるだけの。
 その末路たるや、惨憺たるものだったが……その場には誰もいなかった。彼女に同情する者も、手を差し伸べる者も。

 まずもって、花はお喋りなどしないものだ。
 だからただ、べたりと赤く赤く広がっていけばそれでいい。

Ⅲ.追走する獣

 かつて酷く惹きつけられた、目を、あの子から離すことができなかった。
 ――男は自問する。それなのに、どうしてあの子は今、自分の傍にいないのか。

 顔見知りになってからはできるだけ傍にいようとしてきたのだ。手助けできることがあるなら何でもしたかった。あの子は身体が弱かったようだし(尤も今は健康そのものだ)口下手を通り越して碌な会話もできない男にとってあの子との間に流れる沈黙は心地よさすらあって。一人でいることに慣れているのは男と同じだったのに、男が内心寂しさでむせび泣いていたのに対して、あの子はこれが当然だというように自分の興味だけを追っていた。
(……本当は必要となどされていない、分かっている)

 あまりに無口だった男がちゃんと廃墟探索に同行できたのも、社交性ある幼馴染がいつものように自然な流れに取り繕ってくれたからだ。よく一緒に行動しているグループは傍から見れば「友達」なのだろうけど、当人たちからすれば案外そうでもないものだ。良くも悪くも友情では済まなかったり、嫉みがあったり……いっそ嫌悪すら潜んでいたりする。案外ね。
 廃墟の中で逸れたあの子を探す男が彼女に見つけたからこっちへと呼ばれたなら、疑いなく着いていくことだろう。そしてすぐに、この場にあった遠吠えや獣の気配が野犬や森の野生動物でも棲みついているのだろうとしか考えてなかったその考えを改めることになる。

 ……そこから先で、男は幾許か正気を失っていたのかもしれない。
 何を見て、何と遭遇したかって?――さぁ? ただ男は負傷しつつもその場の危機を脱し、いち早く逃げていた彼女と会い、その顔が何故まだ生きているのと彩られたことに気づいてしまった。彼女の後ろ暗いそれに男が即座に思い至ったのは、自らの価値ない命のことより、あの子を奪おうとしたのかということ。その時から、或いは最初から、男はその執着で視界を歪めていたのかもね。
 そうして行われたのは正当防衛に近い、でも過剰な報復行為。それは足元の花を踏み潰すような、生き物を屠殺するよりは重くなく、けれど確かに良心がちくりと痛むような行為だった。直接手を汚してなんかいないよ、だって近くで唸り声がしてたのだし。けれど元来強い良心と正義感を心根に宿していた彼にとって、これはひとつの引き金となり得たのだろう。
 その後、負傷した身体を引き摺ってあの子を探して、然して小柄な後ろ姿は外にいた。瓦礫の向こう、うっすらと、その輪郭をじわじわと曖昧にして。男がどれほど呼んでも、叫んでも、あの子は振り返らなかった。駆け寄りたかったのに瓦礫が邪魔だった。小柄なあの子しか通れなかったのだ。天国の門はいつだって狭いものだから仕方がない。

 ……追い縋りたかった。だから身体が邪魔だった。身体だけじゃない、本当はもっともっと、いろんなものが邪魔だったのだ。ずっと。なんなら男が生きている間ずぅっと……ね。
 背後で幼馴染の制止する声がしていたが、男の決意は固かった。
 そうして男はそれになった。――男の目は最初から最後まで、あの子しか見えていなかった。
 呆然とする幼馴染の姿。
 歪に輪唱する遠吠えを残して、それは暗闇へと溶けて消えた。

Ⅳ.眩く狂信者

 最後に残された君は、夢惑う旅人より堅実で、執着の獣より冷静で、赤い散花より賢明だった。

 君はいなくなってしまった友人達を探していた。廃墟の中でも、街に戻っても、探す手を止めなかった。……尤も、君が知っている限りで消息が分からないのは一人だけで、一人は異形となったその姿を、一人は血溜まりという明らかな死を確かに目にしていたけれど、それでも君は止めなかった。
 僅かな情報でも逃さぬようにと書物やネット、人伝の情報を漁るその目を休めて、すべてを忘れて日常へと戻れたなら、平穏な生活が待っていたのかもしれない。でもそれはもう過程の話で、選ばなかった未来の話だ。選ばなかったなら未来なんて存在しないのだし、つまりもう君には未来などなかったのだろう。
 そう、君は手を止めなかった。その時点で既に君はもう別の何者かであったのかもしれない。妄執と呼ばれる何かに憑かれていたのかもしれない。
 君は得た情報を辿ってこの一年の内に関連がありそうな場所を幾つも巡り、幾度もあの廃墟に通った。調査のためだ。警察には行かなかった。友人たちがもう見つからないと証明されるのが恐ろしくて。

 君の調査には確かな情報、知識という実りがあった。
 廃墟で行われていた実験の意味を知った。
 廃墟に住んでいた化物の正体を知った。
 廃墟の空間がねじれてしまっていることに気づいた。
 そして一人で探索した幾度目の廃墟から後にした際に――憑き物が落ちたように焦燥感から解放された。よかったね。目的を遂げることはできなかったが、それでも君は新たにやるべきことがあったから満ち足りていた。
 ……これでやっと、失われてしまったもの以外に目を向けることができた。いなくなった友人たち。残念なのは彼らがいれば共有したかったのだが……それはもう仕方がないことだ。
 君は知らしめなくてはならない。自らの内に根づいた黒い知識を、日常に浸かったままでは味わえない経験を、そして叶うならとびきり特別な終幕を。――ヤドリギのようなそれを、大切に大切に手渡していきたい。

 それはそれは、とてもとても。素晴らし い、こと だか ら 。

【四つ辻曲がりて別れ路まで】
Character illust + Short story
2017.08.20